カトリック千葉寺教会ホームページ

司祭のお話

TOP > お話の書棚 > 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ

主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ

マルコ・アントニオ・マルティネス神父


「今年の復活祭はちょっと寂しかったなあ」。この千葉寺教会の一人の信者が言いました。


 寂しい復活祭って本当にありますか? あるはずがないと思います。そこでその人に訊いてみました。「どうして、寂しい?」すると、こう答えました。「今年は洗礼を受ける人が一人もいなかった」。


 私は「寂しいことはないよ」と答えました。確かに復活祭の日に洗礼の秘跡を受ける人はいなかった。でもこの一年のうちに両親がコロンビア人の子どもたち6人、香港人のご婦人1人、プロテスタントからカトリック教会へ入信した日本人1人がいます。ご家族の都合やいろいろな事情があってその洗礼式は復活祭の日ではありませんでした。


 復活祭の喜びはその日に洗礼式を受ける人の数によって変るものではありません。復活祭の本当の喜びは、主イエス・キリストが生きておられること、そしてまた、その名によって洗礼を受けた人々の共同体のなかにおられることから涌き出てくるものです。


 毎週の主日のミサにおいて私たちは聖パウロのことば「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」を体験することができます。ミサがいろいろの国の言葉で捧げられるからではなくて、本当にこの千葉寺教会の共同体は国際的な一つの共同体です。


 復活祭の喜びはその日1日だけの喜びではありません。ごミサの度に、特に主日のミサにおいて、「主の死を思い、復活を称える」のです。そして毎週、目に見える形で普遍的な教会を体験できます。毎週、祭壇の上からそこに集まった一人ひとりの顔がよく見えます。日本人、フィリピン人、アメリカ人、韓国人、インド人、イギリス人、スコットランド人、アフリカ人、ペルー人、パプアニューギニア人、アルゼンチン人、オーストラリア人、メキシコ人などなどの顔です。


 みんな同じ主の名のもとに集まっています。このような多国籍の共同体のみんなに理解されるように説教を行うことは容易なことではありません。しかし大切なことは、ことばの壁をこえて、それぞれの文化、それぞれの国民性に適ったその主日のメッセージが伝わることです。主日のミサの会衆が国籍を越えて一つの心で祈ることが出来るように聖霊の働きを請い求めましょう。


「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つです。(エフェソ(フランシスコ会訳) 4:5)」

「シャローム」2009年06月号掲載

  • サイトトップへ
  • ページトップへ
  • 前ページに戻る